知識の時代

同志社大学工学部 知識工学科 三木光範


 先日ドラッガーのポスト資本主義という本を読んだ。この本は私がこれまでぼんやりと 考えていたことを明確に示してくれたこともあって、一気に読むことができ、しかも極め て多くの示唆を与えてくれた。すなわち、資本主義と社会主義の対立は社会主義の完敗で 終焉し、生き残ったかに見える資本主義も制度疲労に勝てず、時代を支える価値基準は資 本ではなく知識になる、というものである。「重要なことは、現実に支配力を持つ資源、 最終決定を下しうる生産要素は、今日、資本でも、土地でも、労働でもない。それは、知 識だということである。ポスト資本主義における支配的な諸階級は、資本家やプロレタリ アに代わって、知識労働者とサービス労働者である。」
 私は1994年4月1日に府立大学工学部航空宇宙工学科から同志社大学工学部に新設 された知識工学科に移った。このとき、ドラッガーのこの本は知識工学科をこれから作り 上げてゆく私にとってかけがえの無いバイブルになった。すなわち、これからは知識の時 代であり、その知識を科学的に考え、工学的に利用してゆくことは人類にとって新たな地 平を切り開くことにつながるからであり、この本は知識の時代というパラダイムを支える 論理を提供してくれるからである。  ところで、昨年末私は電子手帳の最新版であるシャープのザウルスというポケットコン ピュータを購入した。これはスケジュール管理、アドレス管理などのほかワープロや各種 の辞書などがついた便利な代物であり、液晶画面にペンでタッチするだけですべての動作 を指示する画期的な操作環境となっている。手書き文字認識もでき、購入したときはこん なもの必要なのかなと思ったが、スケジュールなどでは省略名称を使用することが多く、 この場合かな漢字変換の入力では効率が悪く、手書きの漢字を直接認識してくれる機能は 必要だと知った。某大学の某教授もこのザウルスを購入されたが、操作が面倒で使いはじ めていないという。私にとっては極めて便利な操作環境がなぜその教授にはそうではなか ったか。この疑問は知識の時代というキーワードで理解することができる。
 ザウルスの取り扱い説明書から幾つかの言葉を抜き出してみよう。それらは、メニュー、 タッチペン、アイコン、ボタン、スクロールバー、スクロールアイコン、フォーマット、 リスト、反転データ、ICカード、メールボックス、カーソル、区点コード、バーチャート、 コピー、ペースト、カット、などなど。操作は、まずメニューから必要な機能を選んで2 回タッチし、その機能をオープンし、入力ウインドウで必要事項を入力し、必要なら他の 情報を参照してカットアンドペーストする。表示しきれない情報はスクロールさせながら 見る。こうした操作環境はマッキントッシュやウインドウズを使いなれている人には何の 違和感もない環境である。しかしながら、パソコンを利用していない人には言葉だけでな く、概念を理解するのさえ時間がかかる。前述の某教授はまさしくこうした状況であった のだ。
 我々はこの話しから重要な教訓を得ることができる。すなわち、共通の認識としての知 識は日々変化しており、新しい知識はそれまでの知識を土台として差分的に記述されるこ とになる。このため知識の変化に追い付いていないと、新しい知識を獲得することが極め て難しくなる。人類の財産としての知識は指数関数的に増加しており、そうした知識を差 分的(すでに常識となっていることは詳しく説明せず、新しい事柄だけを詳しく説明する) に記述することは効率的な観点からも、また、理解の容易さからも重要なことである。  自然科学や人文科学の最前線では常に新しい概念が産み出されており、それらは旧来の 概念の発展あるいはアンチテーゼとして語られる。このため従来の概念にたいする知識の 積み重ねが無いと新しい概念の理解は極めて困難である。特に、計算機の世界ではまった く日進月歩であり、一休みすると新しいものを理解するのが難しくなる。一方、常に追い 付いていると知識の差分量は少なく、容易に理解できる。これは仕事の分野ではどんな場 合でも常にそうであるが、そうした専門の分野の常識が日常の分野にまで大きな影響を及 ぼすようになってきている。電子手帳は一般の人が使う道具であるが、その中に含まれて いる多くの概念は高度な計算機の開発の中で産み出されてきた概念なのである。
 こうした現象は文化の相違であるとも言える。現代の新しい文化は当然の事ながら若い 世代が産み出したものであり、時間とともにその文化が主流となり、周辺をその文化で染 めてゆく。多数の古い世代の人間はその文化に追い付くことができず、徐々に引き離され て、そのうちにどれだけ頑張ってもその文化に馴染めなくなる。古い世代が、「そんな軽 薄な文化はだめだ。我々の持つこの文化も必要だから勉強しておきなさい。」などといっ ても、それを聞く耳は無い。なぜか? それは、古い世代が軽薄と思っている文化がいず れ中心的な存在となり、それが社会を動かすことになるからである。もし新しい文化にそ れほどの重要性を認めないとしたら、その人はその文化環境から得られる利益を放棄しな ければならない。
 文化とは知識体系である。西洋文化は西洋でうまれた知識体系であり、自然と対立し、 厳密な解析と論理によって構築されている。一方、東洋文化は自然と一体化し、部分では なく全体を見据え、感覚によって構築されている。組織の文化はその組織が持つ知識の体 系であり、個人の文化はその個人が持つ知識の体系である。知識には階層的な構造があり、 知識の下位概念は情報であり、情報の下位概念はデータである。一方、知識の上位概念は メタ知識である。メタ知識とは、知識の使い方を規定する知識であり、我々が知恵といっ ているものに相当する。「人間は知識ばかりではだめで、知恵もないと」というが、広義 の知識にはメタ知識(知恵)も含まれる。
 知識はサバイバルになくてはならないものである。人類も、国も、組織も、個人も、新 しい時代に生き残る(サバイバル)ことは本質的に重要なことで、そのためには何を成す べきかという知識は極めて需要である。資本がいくらあっても、技術がいくらあっても、 また、労働力がいくらあってもサバイバルの知識がなければ生き延びることはできない。 かつての大手鉄鋼会社には資本も、技術も、そして労働力も豊富にあったが、それはサバ イバルの十分条件ではなかった。かつては、資本があれば何でもできた。しかし、今日で は金持ちが時代を切り開くわけではない。新しい知識こそが時代を切り開くことができ、 その知識は資本に服従させられるものではなく、逆に知識が資本を呼び寄せるのである。
 知識が時代を規定し、知識が新しい時代を開くとき、知識の獲得と知識の創造はもっと も重要な仕事になる。個人、組織、そして国家の中で知識を産み出し、管理し、増補する 仕事は極めて重要なことになる。この仕事を効率的に行うためのシステムを我々は考えな くてはならない。そのためには人間の頭の中にある知識の構造を解明し、知識を取り出し、 電子的に処理するための構造を考えるなど、様々な角度からの研究が必要である。一方、 既存のシステム、組織、方法などを知識指向的に作り替え、人間、装置、システム、組織、 そして知識が有機的に共同作業できるようなものにしなければならない。すでに始まって いる知識の時代はこうしたことを要請している。
 私は最近知識ベースを利用した構造物の設計システムについて研究している。知識を計 算機の中でどのように記述するか、どのような知識が基本的な知識か、というようなこと を考えている。また、これからは知的な人工物を設計するにはどうすればよいか、などと いうことも考えてゆきたい。知的な人工物とは知識を持った人工物であり、その知識とは、 その人工物が与えられた目的をどんな環境の下でも十分に果たすためにはどうすればよい かという知識である。現在、構造や材料といった従来では知的とは無縁だったものが知的 化されてきており、人間の組織でもこれからは広義の環境変化に柔軟に対応できる知的な 組織が望まれる。知的システムに必要不可欠なものは、システムの目的を達成する基本要 素のほかに、外界を関知するセンサー、システムを再構成するメカニズム、そしてシステ ムのメタ目的とそのメタ目的を基に戦略を練り、戦術を編み出す頭脳である。人間の組織 にどれだけこうした要素を入れることができるかが、組織発展の鍵となる。そして、さら に重要なことは、知識の時代には、小数の頭脳が意志決定して多数の要素を動かすのでは なく、各構成要素が知識を獲得し、各自のセンサーとメカニズムで自律的に動作すること である。
 知識の時代は知識そのものが分散的に獲得され、保有されることを意味する。高度に複 雑となった知識はもはや一括処理するには膨大すぎる。社員が10人程度の企業なら社長 が頭脳となりすべてを処理、決定することができる。しかしながら、大企業では合理的に 階層化された各要素がそれぞれの知識に基づいて行動しなければならない。知的な組織は、 再帰的に知的な要素で構成されている。そして各要素の知識は柔軟に更新され、常に全体 の知識と整合性を保たなくてはならない。知識の時代にはこのような知識の管理がシステ ムの各階層毎にもっとも重要な仕事となる。
 「何が知識の時代だ。おれはそんなものごめんだよ。おれは人間らしい生活がしたいの だ。」といってみたところで始まらない。ソビエト崩壊がとめられなかったように、知識 の時代への流れは止まらないだろう。人間らしい生活を望むなら、積極的に知識の時代に 関与し、自分の回りの環境を知能化し、余裕を産み出すことに勤めるべきだろう。大事な ことは生産性を上げることであり、そのための方法を考えることである。知識の時代に仕 事の生産性を上げるには、環境としての組織、システム、装置、道具を知的にしなければ ならない。お金で知識を買うことはできる。しかしながら、買った知識の重要性を判断す るための知識を持っていなければならない。また、以前に蓄積した知識との整合性を取り、 知識の更新をしなければならない。そのためには高度な知識が必要であり、やはり知識の 管理のためのシステムが必要になる。結局、どんな人もこれからは程度の差こそあれ、知 識システムと無縁でいることはできない。  知的人工物は従来の人工物より格段に優れた機能を持つ。例えば、最近自宅に設置した コードレス留守番電話付きFAXは素晴らしい機能を持つ。しかしながら、すべてを理解 するにはかなりの基礎知識が必要である。決まった期間に留守モードになる、とか、外出 先の電話から録音された伝言を聞く、などなら容易に理解し、設定できる。しかし、最も 安い電話回線を自動選択するα-LCR2 に至ってはどの程度の人が正確に理解しているのだ ろうかと心配になってくる。第二電電から月1回ぐらい自動的に電話回線のデータが送信 されてきて、それを電話/FAXが自動的に取り込み、かけた電話/FAXの予想継続時間 と現在の時刻に応じて料金の安い電話回線を選択するわけだが、つくづく知的なシステム だと感心する。もし、初期設定のための知識の無い人はお金を出して専門家に依頼する必 要がある。これは労働力を購入しているのではなく、知識を購入しているのである。それ にしてもα-LCR2 が提供する機能については自分で獲得するか、教えてもらうかは別とし て、知識を得なければならない。これからは種々の専門的知識が日常生活のレベルでも必 要になり、専門家のコンサルティング業務はますます盛んになるだろう。  知的人工物は知的だからもっと使い易いものではないのか、という疑問は当然生じるだ ろう。その疑問に対しては次のように答えたい。すなわち、人工物の知的水準が千倍ぐら い上がればそれを用いるユーザーの知的水準も十倍ぐらい上がらねばならない。ちょうど、 部下として優れた人間が配属されれば上司は前より自分の水準を上げなければならないの と同じである。部下が優秀であればあるほど上司も優秀でなければならない。
 知的人工物は知的だから、それを使っている人間は頭を使わなくなるのではないか、と いう疑問も当然生じるだろう。例えば、ワープロを毎日使っていると漢字が書けなくなる のは事実である。しかしながら、文書の生産性は著しく向上するし、ワープロに含まれて いる種々の機能の基になっている概念は現代の文化そのものであり、これを理解してゆく ことはすでに述べたように新しい文化を理解してゆく上で不可欠である。この観点から、 知的人工物を使用すると使わなくなる頭の部分は生じるが、その何倍もの別の部分を使う ことになると考えられる。  知的人工物は知的すぎて感性がない、という疑問もあるかもしれない。しかしそれは単 なるノスタルジアに過ぎない。あるいは単なる習慣の問題である。カラーテレビより白黒 テレビの方が良い、カメラはシャッタースピードと絞りを自分で決めたい、座敷に座り、 文机に向かい、筆で書くと良い文章がうまれる、などという人は極めて限られているだろ う。趣味の世界は別として、仕事の世界では生産性を上げ、より良い仕事をしなければサ バイバルできない。知的になった人工物は別の角度から人間の感性に優しくなることがで きると思われる。
 社会の基軸概念は産業革命後材料からエネルギーに代わり、そして第二次世界大戦後情 報に代わった。そして今、それは知識に代わろうとしている。物質の大量消費、エネルギ ーの大量消費、そして情報の大量消費から、蓄積された膨大な人類の財産としての知識に 世界中の人々がそれぞれ独自の価値ある知識を追加し、利用してゆくことが重要なことに なる。知識は物質、エネルギー、あるいは情報とは異なって差分的に追加でき、また、物 質やエネルギーとは異なり使用してもなくなるものではない。原材料、エネルギーともに 少ない日本は特に知識で世界をリードしなければならない。米国はすでに知的財産の国家 的な管理に力を入れはじめている。日本で価値ある知識の豊かな創造がなされるために、 大学、研究所は特に重要な役割を果たす必要がある。我々はこれを肝に銘じて自己の変革 を行い、知識の時代に貢献しなければならないと考えている。

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